16.バプテスマは救われるために必要か?

 

キリスト教の中で最も口やかましい質問の一つは、バプテスマが救われるために必要であるかどうかということです。 答えは簡単で「ノー」です。そこで人々は尋ねます。「もしその答えが「ノー」なら、なぜ『この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである』(Iペテロ3:21)とか、『あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい』(使徒2:38)というような御言葉があるのですか?」

 

これは、まさに正直な質問で、それには十分な答えが必要です。しかし、これと取り組む前に、適切な神学の基礎を添えて、それから、バプテスマが救われるために必要であるという考えを支持するためによく用いられる御言葉について触れたいと思います。

 

神は契約に基づいて働かれる

まず、最初に理解されなければならないことは、神が契約に基づいて働かれるということです。契約とは、二者あるいはそれ以上の間で交わされる協定また同意です。新約聖書と旧約聖書は、新しい契約、古い契約ということです。 ”testament” という言葉は契約を意味するラテン語のtestamentum から来ています。したがって、聖書は契約の書であると言えます。ですから、もし契約のことが解からなければ、バプテスマが契約のしるしであるので、このバプテスマの問題を十分に理解することはできません。

 

へブル書13:20の「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神」という言葉からも、神が契約に基づいて働かれることが解かります。永遠の契約は、天地創造の前からある父なる神と子なる神の間における契約で、父が選ばれた者を子に与えるというものです。ですから、イエス様は、次のような言葉を言われたのです。「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」(ヨハネ6:37) 「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」(ヨハネ6:39) 「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためではなく、あなたがわたしに賜った者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。」(ヨハネ17:9)

 

もし神が、契約に基づいて働かれること、またご自身の契約(虹、割礼、聖餐など)の顕現としてしるしを用いられるということを理解していないと、バプテスマが、神の契約のシステムのどこに当てはまるかが解かりません。

 

二番目に、私たちは、バプテスマが何であるかを知る必要があります。それは内なる現実の外における表現です。たとえば、それはキリストの血によって魂が洗い清められた内なる現実を表します。ですから、この事は色々な異なった方法で表現されるのです。バプテスマは、人の死(ローマ6:3-5)、キリストと人との一体(ガラテヤ3:27)、罪のきよめ(使徒22:16)、イスラエルがモーセにつくバプテスマを受けた時のように誰かにつくという証し(Iコリント10:2)、また一つの教会に結ばれる(Iコリント12:13)という象徴的な意味があります。また、バプテスマは、イエス・キリストによって設けられた恵みの契約のしるしのひとつです。その意味で、それは聖礼典と呼ばれます。聖礼典は、語られたことの目に見える顕現です。また、それは内なる恵みの目に見えるしるしであるとも言われます。例えば、キリストの十字架を象徴するパンとワインにあずかる聖餐式は聖礼典と呼ばれます。ですから、私たちが聖餐式にあずかるとき、私たちは聖礼典にあずかっているのです。

 

恵みの契約は、神が人に永遠の命を約束する神と人との間の契約です。それは十字架の上におけるイエスの犠牲に基づき、条件はイエス・キリストに対する信仰です。聖餐の食事が過越しの食事に取って代わったように、バプテスマは割礼に取って代わります。

 

割礼は、アブラハム契約の最初の儀式でした。契約とは、まさにアブラハム契約のように、二者あるいはそれ以上の間で交わされる協定また同意です。神はアブラハムに、「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。」と言われました。それから、神は、契約のしるしとして、成人男子だけでなく、生まれて八日目の男の子にも割礼を施すように、アブラハムに命じられました。もし子供に割礼を施さなかったら、彼らはアブラハム契約の約束のもとにあるとは見なされませんでした。これが、モーセの妻が彼女の息子に割礼を施して、その包皮をモーセの足に投げた理由です(出エジプト4:24-25)。彼女は、神と彼女の子供の間にある契約の重要性を知っていました。しかし、同時に、私たちは、割礼がそれを受けたすべての者に救いを保証しなかったことを理解しなければなりません。それは神の家族(当時はユダヤ人であった)として生まれた、神の民のためだけに意味された儀式でした。

 

ここでの重要な質問は、どのようにして幼児が神との契約に入れられることが可能であるかということです。この質問には色んな答えが考えられますが、一つの大切なポイントは、幼児たちは彼らの両親を通して神との契約関係に入れられたということです。

 

新約聖書において、割礼は何回も言及されています。 しかし、この話題に関して、それはコロサイ書2:11-12において明確に言われています。「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」 この御言葉では、バプテスマと割礼が関係づけられています。バプテスマは旧約時代の割礼に取って代わるものです。その理由は、聖餐の食事の中に新しい契約がある(ルカ22:20)からです。また、割礼では血が流されますが、バプテスマでは血は流されません。なぜならキリストの血が既に流されているからです。

 

バプテスマが契約のしるしであることが解かれば、それがキリストによって私たちの心に割礼が施されることの表現であることを見ることができます(ローマ2:29; コロサイ2:11-12)。それは、私たちの内なる霊的再生の祝福を目に見える形で宣言することなのです。それは、信仰によって与えられる神の贈り物(ローマ12:3)であり、神の業です(ヨハネ6:28)。

 

三番目に、聖書は、救いは福音であると言っています。
「この福音によって救われる」(Iコリント15:2)
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」(ローマ1:16)

 

福音とは何か

福音とは確かに私たちを救うものです。しかし、福音はいったい何でしょう? それは、聖書の中で、私たちに明らかにされています。まずその一つは、Iコリント15:1-4 の中に見ることができます。

 

「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起こしてもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」。

 

福音とは、私たちの罪のための、イエス様の死と、葬りと、よみがえりであると定義されています。バプテスマは、ここには言及されていません。

 

パウロは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるために来たのだと言いました。

「わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外は、あにたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためである。」(Iコリント1:14-17)

 

もしバプテスマが救われるために必要であるなら、パウロは、なぜそれを控え目に扱って、救いに関する記述にそれを入れないようにさえしたのでしょう。それはバプテスマが救いに必要ではないからです。

 

さらに、使徒行伝において、ペテロは福音を宣べ伝え、そして、人々は救われました。それから、彼らはバプテスマを受けました。使徒行伝10:44-47では、こう言われています。「ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、『この人たちが、わたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか』。こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。」。

 

これらの人々は救われました。聖霊の賜物が異邦人に与えられ、彼らは異言語り出しました。この事は重要です。なぜなら、異言は信じる者に与えられる賜物だからです(Iコリント14:1-5)。また、未信者は神を賛美しません。本当の神に対する賛美は、未信者には馴染みのない、深い霊的な事柄なので、彼らには神を賛美することはできないのです(Iコリント2:14)。したがって、使徒行伝10章に出てくる、異言を語り、神を賛美している人々は、明らかに救われた人々であり、彼らはバプテスマを受ける前に救われているのです。これは単なる例外ではありません。それは現実のものです。

 

こう考えてみよう

このことを明らかにする別の方法はイラストを用いることです。たとえば、人が、聖霊の導きによって(ヨハネ16:8)、イエス様を自分自身の救い主として信じ(ローマ10:9-10; テトス2:13)、主として受け入れたとします。その人は救われているでしょうか? もちろん、救われています。さらに、この人が、自分の罪を告白し、主に悔い改めを祈り求め、イエス様を救い主として受け入れ、その地域の教会でバプテスマを受けるために通りを横切っていたとします。ところが、その道の真ん中で、彼は車にはねられ死んでしまいます。彼は天国に行きますか、それとも地獄に行きますか?もし彼が天国に行くなら、バプテスマは救われるために必要ではありません。また、もし彼が地獄に行くなら、イエス様を信じる信仰は救われるのに十分ではなくなります。それでは、救いが信仰によって受ける無償の賜物(ローマ6:23)であるという御言葉に反しませんか(エペソ2:8-9)。

 

救われるためにはバプテスマを受けなければならないと言うことは危険です。なぜなら、私たちが救いを完成させるためには、しなければならない事があると言っているからです。それは間違っています!

 

次の御言葉を見て下さい。

ガラテヤ2:21-「わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。」
ガラテヤ5:4-「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。」

 

では、バプテスマが救われるための一部であると言っているような御言葉についてはどうでしょう。これは非常に長くなるので、ごく一部の御言葉と簡単な説明をします。

 

バプテスマに関する御言葉

ヨハネ3:5 - 「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。』」

 

ある人は、ここで言う水はバプテスマを意味していると言います。しかし、まだクリスチャンのバプテスマが制定されていなかったときなので、そうではなさそうです。もしこの御言葉がバプテスマを意味したなら、その時点であり得た唯一のものは、バプテスマのヨハネによって執行されていた悔い改めのバプテスマでした。であれば、この悔い改めのバプテスマはもはや執行されていないので、バプテスマは救いのために必要ではないということになります。

 

さて、ここで言われている水が何であるかということについては色んな見解がありますが、そのひとつは、この水が普通の生命の誕生の過程を示す子宮の水を意味するというものです。イエス様は、ヨハネ3:3で、ニコデモが「新しく(再び)生まれる」必要があると言われました。これは、既に彼が母から一度生まれていたことを意味します。これに対し、ニコデモは、再び生まれるために、どうやって、もう一度、母の胎に入ることができましょうかと言って応答をします。そこで、イエス様は、「水と霊とから生まれなければならない」と言われます。それから、6節で、イエス様は、「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である(肉は肉を生み、霊は霊を生む)」と言われます。つまり、この文脈は、肉の誕生と霊の誕生の対比について論じられているように見えます。という訳で、ここで言われている水は、普通の生命の誕生の過程を意味するものと解釈できる訳です。ただ、学者たちの中にも、この立場を支持する人としない人がいます。ある学者は、この水は神の言葉である聖書を指すと言い、またある学者は、この水も霊も共に聖霊を意味すると言います。

 

使徒行伝2:38 - 「すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」

 

この御言葉は、かなり難しいです。これは、バプテスマが救いの一部であると言われているように見えます。しかし、私たちは、他の御言葉によって、そうではないことを知っています。でなければ矛盾することになります。ここで言われていることは、ただ単に、罪の悔い改めと赦しが関連したものであるということです。ギリシャ語で「悔い改め」という言葉は複数形なので、この部分は「あなた方のすべてが悔い改め、あなた方のすべてがバプテスマを受け、そしてあなた方のすべてが罪の赦しを得るのです」という意味になります。悔い改めは、神によって与えられる救いのしるしで(IIテモテ2:25)、信じる人にだけ与えられるものです。ですから、その文脈の中で考えれば、悔い改め、作り変えられた人だけがバプテスマを受けることになります。バプテスマは、神からの賜物としての、また心の割礼のしるしとしての悔い改めの顕現です。だから、悔い改めてバプテスマを受けなさい、と言われているのです。

 

Iペテロ3:21 - 「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明かな良心を神に願い求めることである。」

 

この御言葉は、バプテスマが私たちを救うと言っている唯一の御言葉です。しかし、良い聖書翻訳は「それに対応して、バプテスマは、今やあなたがたをも救うのである」と訳されています。この「対応する」という鍵言葉のギリシャ語は“antitupon”で、その意味は、「コピー」「型」「一致する」「別のものに似ているもの」「写し」などという意味です。ですから、バプテスマは、何か別のものの代理、コピー、ひな型であるということです。では、何のひな型なのでしょう。あるいはバプテスマは何に対応するのでしょう。その答えは、この前の20節の御言葉の中に見出されます。「これらの霊というのは、むかしノアの箱船が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱船に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」。そのひな型として、バプテスマは、今や私たちを救うのだと言われているのです。

 

では、このバプテスマは何に相当するのでしょう。それは洪水でしょうか?それとも箱舟でしょうか?ノアと彼の家族を救ったものは何だったでしょう?それは水でしたか、それとも箱舟でしたか?明らかにそれは箱舟でした。ノアは、信仰によって箱舟を造り、その中に入って救われました(へブル11:7)。洪水の水は信仰のない人々を滅ぼしてしまいました。ペテロは、洪水の水に言及しながら、不信仰な者の滅びについて語っています(IIペテロ2:5; 3:6)。救いをもたらしたのは箱舟でした。ノアは信仰によって箱舟に入ったのです。したがって、ここでのバプテスマは、水ではなく箱舟のことを言及しているのです。だから、「からだの汚れを除くことではなく、明かな良心を神に願い求めることである」と言われているのであり、それは、パウロが、コロサイ書2:11-12で、バプテスマを心の割礼と同一視していることと一致するのです。

 

使徒行伝22:16 - 「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、みなをとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」

罪を洗い去るのは、すでに救われていることを意味する心の割礼の表現であるバプテスマによるのでしょうか?それとも、キリストの血によるのでしょうか(へブル9:14; ローマ5:9; エペソ1:7)?明らかに、それはイエス・キリストの血によるものであり、ここでの洗いは、イエス様の御名を呼び求めることです。

 

ローマ6:4 - 「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」

キリストを信じる者がキリストにしっかりと結びついているので、バプテスマの象徴は私たちの死と、葬りと、復活であると言われているのです。明らかに、それは比喩的な意味で言われており、もちろん私たちは死んでなどいません。

 

テトス3:5 - 「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」

新生のための洗いは、私たちを清めるキリストの血による洗いだけです。それは救いの象徴ではなく、現実のものです。その現実は十字架で流されたキリストの血です。

 

ガラテヤ3:27 - 「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」

これは信じる者たちとキリストとの合体について言われています。それはキリストと一つであること、キリストにつながること、キリストに忠誠を宣言することなどを意味しています。第一コリント10:2にあるように、イスラエルの民はモーセにつくバプテスマを受けました。それは、彼らがモーセとその働きの目的に心を一つにしたことを意味します。

 

結論

バプテスマは、救いのために必要なものではありません。それは、恵みの契約への最初のしるしです。割礼が、罪を取り除き、心を変えることを示すように、バプテスマは罪を洗い流すこと、また霊的な復興を示します。心の割礼は、肉の割礼によって示されるもので、それがバプテスマです(コロサイ2:11-12)。

 

最後に、もし誰かがバプテスマを救いのために必要だと主張するなら、その人は完成されたキリストの御業に、働きを加えようとしていることになるでしょうか?もし答えが「イエス」なら、その人は救われていないという重大な危険性を持っています。しかし、もし答えが「ノー」なら、なぜバプテスマを受けることがそんなに必要なのでしょう?

 


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