18.バプテスマとローマ書4章

 

義認とは、神が罪人を義と認める、法的な宣言です。キリストを信じる者だけが義とされます。義とされた人は神の裁きから救われています。したがって、すべて義とされた人は救われています。この義認は、働きによってではなく、信仰によって、信じる者に数えられるキリストの御業に基づいています。

 

「義認」という言葉は、ギリシャ語のdikaiosisから来ています。それは「義を宣言する行為、義認、免罪」を示し、正確な意味は動詞のdikaiooによって明らかにされますが、それは「正しいとする」ということです。

・      義認とは、罪人の罪を赦し、罪人を義と認める神の行為です。それは、行いによるのではなく、罪人の代わりに十字架で血を流された主イエス・キリストを信じる信仰によって、無償で与えられる、神の恵みです。

・      神の義の一つの意味は義認ということです。義は、いわば法廷において信じる者に与えられるものです。神のさばきは、赦しによって神の義を実現します。義認は、単なる道徳的な正しさではなく、神の前に「正しい」と認められることです。

・      義認は、人を罪の罰から自由にし、神に受け入れられる者とする神の宣言です。

私たちは、義認が神の法的な行為であることを見ることができます。それは法に関わることなので「法的」なことで、それは人間の業ではなく神の業です。この義認は、以下の御言葉の中に見ることができます。

・      ローマ5:1 - 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」

・      ローマ5:9 - 「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるのであろう。」

 

私たちは、誰でも義とされた者は神に対して平和を得、さばきを受けることがないことを明らかに見ることができます。これらの御言葉は、義とされたすべての者は救われ、ある人たちが教えているように、救いと義認との間には何の区別もないことを明らかに教えています。ある人たちは、救いと義認は同じではなく、人は義とされても救われないということがあると教えます。もしろん、これは御言葉に反する考えです。

 

義認は行いではなく信仰によるものである

神学の世界で挙がる最も重要な質問のひとつは、私たちの行いが、神の前で、義認のための何らかの役割を果たすかどうかということです。ある人は、信仰だけでは私たちを救うことができないので、私たちが良い行いによって信仰を示さなければならず、もし良い行いを示せなければ、私たちは救われないと言います。この立場は非聖書的です。

・      ローマ3:28-30 - 「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。まことに、神は唯一であって、割礼のある者をも信仰によって義とし、また、無割礼の者も信仰のゆえに義とされるのである。」

・      ローマ4:5 - 「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」

・      ローマ10:4 - 「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。」

・      ローマ11:6 - 「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである。」

・      ガラテヤ2:16 - 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」

・      ピリピ3:9 - 「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

 

私たちは、パウロが信仰と行いを分けて、律法の行ないによっては、だれひとり神の前に義とされることがないと宣言しているのを見ることができます。パウロは、働きはなくても、信じる人は義と認められると、はっきり言っています(ローマ4:5)。言い換えれば、行いがどうであれ、信仰だけで、私たちは義とされるということです。いずれにしろ、ここには二つの選択肢しかありません。信仰か行いかです。パウロは、神の前に私たちが義とされるための選択肢として、行いを明らかに否定します。これは、信仰だけが残ることを意味し、義認は信仰だけによるということです。

 

バプテスマと義認

義認はどのようにして得るものでしょうか?それは信仰だけによりますか?それとも信仰と何か他のものが必要でしょうか?それは、信仰とバプテスマでしょうか?信仰と行いでしょうか?それとも信仰と良い行いでしょうか?

 

救われるためにはバプテスマが必要であると信じている人々の間では、人は信仰だけでは救われません。人は信仰とバプテスマによって救われると主張します。これは、こういうことを意味します。つまり、ある人が、今際の際で、牧師の訪問を受け、語られた福音を聞き、信仰によってキリストを受け入れ、キリストが神が人となられた方であり、自分の罪のために十字架で死に、三日目に死からよみがえられたことを信じたにもかかわらず、バプテスマを受ける前に死んだので地獄に行くことになるということです。これは、バプテスマが救われるために必要であるという立場の論理的な結論です。

 

この考えは正しいでしょうか?また聖書の中に、義認が信仰以外のものによって得られた例を見ることができるでしょうか?答えは簡単です。義認は信仰だけによるのです。決して信仰と何か他に必要なものがあるわけではありません。それでは、そのことを以下に立証してみましょう。

 

ローマ書4

私たちは、ローマ書4章に義認は信仰だけによるという宣言を見ることができます。それでは、まず最初の6節を見てみます。

それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。もしアブラハムが、その行いによって義とされのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払として認められる。しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、(ローマ4:1-6)

 

3節を見ると、アブラハムは神を信じた(神に対する信仰を持っていた)、それによって彼は義と認められたと書いてあります。「認められる」という言葉は、ギリシャ語のlogizomaiから来ていますが、その意味は、認める、考慮する、数える、重要視する、というものです。つまり、ここで言われていることの意味は、ただ単に、アブラハムが信仰によって神の前に義とされた、ということです。

 

また5節を見ると、パウロは続けて、「しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」と言っています。つまり、アブラハムは信仰によって義とされたので、私たちは行いがなくても、信じるならば、信仰によって義とされるということです。ちょうどアブラハムの信仰が、彼を義と認めさせたように、信じる者は誰でも、義と認められるので、信仰によって義とされるのである。パウロが、非常に明確に、信仰を行いから分けて、信仰だけというところを強調していることに注目すべきです。

 

ある人は、アブラハムが旧約聖書と古い契約の中にいる人であり、私たちは新しい契約のもとにいるわけなので、救われるためにはバプテスマを受けなければならないと言います。しかし、パウロは、アブラハムが信仰によって義とされたことを述べ、アブラハムの義認を、「しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」と言って、現在の私たちに関連付けていますから、その論点は間違いです。パウロは、古い契約と新しい契約、また旧約聖書と新約聖書の両方をつなぎ、信仰によるアブラハムの義認を、現代の義認と同一視させています。

 

もう一度、この批判的な論点を見てみますが、パウロは、こう言っています。

なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払として認められる。しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。(ローマ4:3-5)

 

ここでパウロは、当時のアブラハムを私たちに照らし合わせています。彼は、私たちを皆、信仰義認という同じ舟に乗せています。パウロは、3節にある信仰によって義とされたアブラハムについて語り、そして5節においては、彼を信じる私たちと言って、私たちのことを語りながら、同じように信仰によって義とされるのであると言っている訳です。

 

モーセの律法?

4節の御言葉がモーセの律法だけのことを言っているという考えを否定することについて触れてみます。4節で、パウロは働きと報酬について語っています。これは、モーセの律法のことではなく、働き一般に関することで、働きには当然の報酬が支払われることを言っています。パウロは、すべての働き(行い)について語っています。5節では、パウロは、「働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」と言っています。つまりパウロは、信仰と義認ということから、あらゆる働き(行い)を切り離しているのです。彼は、私たちが、行いには全く関係なしに、ただ信仰によって神の前に正しい者とされることを言っているのです。

 

パウロは、私たちに、このポイントを明確に理解してもらいたくて、このように続けます……。

罪を主に認められない人は、さいわいである」。さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のまま信じて義とされるに至るすべての人の父となり、(ローマ4:8-11)

 

パウロは、アブラハムの義認は彼が割礼を受ける前であったと言っています。これは、割礼という義のしるしがアブラハムを救ったのではないということにおいて、大変重要です。つまり、割礼(行い)が、彼を義なる者としたのではなく、また彼が信仰によって義とされるところに導いたのでもないということです。アブラハムは割礼を受けたとき、信仰によって義とされたのではありません。彼は、割礼とは関係なく、信仰によって義とされたのです。そして、その割礼は、彼が無割礼の者であった時に既に持っていた、信仰による義のしるしなのです。

 

かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者と言うのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われわれの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところに違反なるものはない。このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父としたと書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。(ローマ4:12-18)

 

16節を見ると、信仰は恵みによるのであり、アブラハムのすべての子孫に、つまり、ただ律法に従うユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのだと言われています。これは、彼によってすべての国民(異邦人も含む)が祝福されると言われたアブラハムが、信仰によって義とされるすべての者の父であることを言っています。ガラテヤ書3:29には、「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」と記されています。

 

もしアブラハムが、割礼を受ける前に、またイサクを捧げる前(彼が行いによって信仰を証しする前)に、信仰によって義とされたなら、私たちも、霊的に割礼(コロサイ2:11-12)を受ける前に、また行いによって信仰を証しする前に、信仰によって義とされることができる筈です。

 

あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。(コロサイ2:11-12)

 

パウロは、割礼とバプテスマの間に重要な比較をしています。旧約聖書の割礼は、将来における心の割礼を表しました。つまり、それは福音のしるしを表しています。ガラテヤ書3:8で、パウロは、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したのである。」と言っています。ここでアブラハム契約が福音と呼ばれていることは注目に値します。これは、「すべての国民が祝福される」という創世記12:3からの引用ですが、それはアブラハムの割礼の前、アブラハムがイサクを捧げる前のことです。

 

パウロは、心の割礼はバプテスマの中に埋められることによって表されていると言っています。もしパウロが、割礼とバプテスマをそのように比較するなら、私たちは、バプテスマが、割礼のように、聖書的に働き(行い)であるかどうかを調べる必要があります。

 

バプテスマは働き(行い)か?

バプテスマによる再生を支持する人々は、救われるためには水のバプテスマが必要であると言います。またバプテスマは、自分でするのではないので働き(行い)ではないとします。つまり、それは自分たちがした事ではなく、された事であるということです。しかし、それならば、同じ議論が割礼においても適用されます。割礼は、同じように、自分でした事ではなく、された事でした。しかし、パウロは、信仰によって義とされる過程を完了する手段として割礼を施されようとした人々を非難したのです。

 

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けいれたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんな物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。(ガラテヤ3:1-6)

 

パウロは、御霊によって始められたものを肉によって仕上げようとした人々を、あからさまに非難しました。パウロは再び、神を信じる信仰によって義とされたアブラハムを引き合いに出しています。パウロは、信仰と割礼によるのではなく、信仰と何か他のものによるのでも、信仰とバプテスマによるのでもなく、信仰による義認を明らかにしています。

 

パウロは、さらに、割礼について言及します。

見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。(ガラテヤ5:2-6)

 

パウロは、十字架における神の御業を、割礼による人間の努力で完成させようとする人々を激しく非難します。そして、そういう彼らに、パウロは、割礼を受けようとするすべての人たちに、律法の全部を行う義務があると言いました。なぜでしょう?それは、彼らが、信仰だけによって神に受け入れられるのではなく、行いと信仰によって神に受け入れられると主張したからです。したがって、救われるためには、信仰に加えて行なわなければならないものがあると主張した彼らは非難されたのです。

 

私たちはローマ書4:1-18から何を見ますか?

私たちはこの御言葉から以下の結論を引き出すことができます。

1. アブラハムは神の前に行いによって義とされなかった。(2節)

2. アブラハムは神を信じ、その信仰によって義と認められた。(3節)

3. パウロは、行いによって義とされるなら恵みではなくなると言っている。(4節)

4. 行いではなく、信じている私たちは、信仰によって義とされている。(5節)

5. 義と宣言されることは、人間の行いとは別のことである。(6節)

6. アブラハムに対しては、信仰が義と認められた。(9節)

7. アブラハムは、割礼の前に信仰によって義とされた。(10節)

8. 割礼は、彼が割礼を受けていない間に既に持っていた、信仰による義のしるしである。(11節)

 

ローマ書5

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。(ローマ5:1-2)

続けてパウロは、「信仰によって義とされたのだから」と言っています。ここで私たちに与えられている唯一の文脈は4章で、ここでパウロは、アブラハムが、いかなる行いや、しるしや、儀式にもよらず、ただ信仰によって義とされたと言っています。パウロは信仰による義の教義を旧約聖書から私たちに教えています。そこで彼は、アブラハムが、彼の行ないとは関係なしに、信仰によって義とされたことを指し示しながら、そのことを教えています。

したがって、私たちは、バプテスマが救いに必要でないことを見ることができます。 私たちは信仰によって義とされるのです。決して信仰のほかに何か行いが必要なのではありません。

 

反論に答えて

1.バプテスマは、私たちに対して行なわれるものであって、私たちがするものではないので、それは行いではないのではないか?

これは、同じように、私たちが行なうことではなく、私たちに対して行なわれる割礼に対するパウロの非難のところで答えられていることです。パウロは、これを行いと見なし、はっきり否定しました。もし人が信仰によって義とされるなら、その人は信仰によって義とされるのです。神に対する信仰は、その人を義とするものです。もし、その人がバプテスマを受けるときに信仰によって義とされるなら、その人は信仰によって義とされるのではなく、信仰とバプテスマによって義とされることになります。信仰とは、信じることです。もし私たちが信仰によって義とされるなら、私たちは信じるときに義とされることになります。もし私たちがバプテスマを受けるときに信仰によって義とされるのであれば、私たちは信仰によって義とされるわけではなくなります。なぜなら、信仰は信じる時に起こるものであり、それはバプテスマの前だからです。ですから、バプテスマが救いに必要であるなら、私たちは信じるときに信仰によって義とされるのではなくなります。なぜなら、私たちは信仰をバプテスマの前に持っているからです。したがって、バプテスマによる新生は信仰による救いを否定することになります。もし信仰が、義認をもたらすために、行いと組み合わされなければならないなら、もはやそれは信仰による義ではなく、信仰と行いによる義ということになります。

2.聖書は、アブラハムが義とされたように私たちが義とされるとは言っていないのではないか?

いいえ、聖書はそう言っています。パウロがローマ書4:5で、「しかし、働かなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」と言うとき、アブラハムが信仰によって義とされ、このアブラハムの義認を現在に関連させるために言っているからです。パウロは、古い契約と新しい契約の両方、また旧約聖書と新約聖書の両方を関連付けながら、アブラハムの信仰による義認の例を現代の義認と同一視させているのです。

3.聖書は、ユダヤ人が律法によって義とされることを求めて来たと言いますが、その律法は、救いのためにバプテスマが必要であると信じる私たちが同意できることではない。

あなたがそれに同意するかどうかは、パウロが、信仰を割礼で完成させることによって義とされようとした人々を非難した事実を変えるものではありません。コロサイ書2:11-12で、パウロはバプテスマと割礼を非常に明確に比較しています。「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ書2:11-12) ガラテヤの人々は、救いの福音とキリストにある信仰のメッセージを聞きましたが、彼らはその義認を受けるためには小さな行いが必要だと言いました。しかし、パウロは彼らを非難しました。なぜでしょう?それは、人は信仰によって義とされるか、それともされないかのどちらかだからです。信仰によってだけ義とされるのか、それとも義とされないのかのどちらかなのです。

4.私たちは救われる前に義とされることができ、義とされるから救われるのではない。

これは無知の議論です。義とされるということは、神が、ご自身の前に、その人を法的に正しいと宣言されたことを意味します。つまり、それは、その人が神の義の裁きから救われているということです。したがって、義とされた人は救われているのです。

5.アブラハムの信仰は、ヤコブ書2:19の悪霊どもの信仰のようではない。アブラハムの信仰には行いがあり、その信仰と行いが彼を救ったのではないか。

ヤコブは、ここで偽りの信仰と本物の信仰について語っています。悪霊の信仰は偽りで、何の行いも伴いません。しかし、本物の信仰は人々の前で行いによって現わされます。それが、ヤコブがヤコブ書2:14で、死んだ信仰に言及し始め、本物の信仰がどういうものであるかを説明している理由なのです。「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。」(ヤコブ2:14)

6.ヤコブは、私たちは行いによって救われると言っている。

ヤコブは、行いによって義とされることについて三回言っています。これは義認を示すためです。アブラハムは、その行いが認められたほどの正しい人です。それは彼が本物の信仰を持っていたからです。本物の信仰は、行いのない死んだ信仰ではなく、行いの伴う生きた活動的なものであることをヤコブは強調しているのです。

7.イエス・キリストに救いや罪の赦しを願うことは“行い”ではないのか?

罪の赦しを主に求めることは、主に対する信仰の訴えです。イエス様は、その御名によって求めるものは何でも叶えて下さると言われました(ヨハネ14:14)。ですから、私たちは主イエスの御名を呼び求めなければなりません(Iコリント1:2)。キリストに祈ることは行いや儀式ではなく、私たちのうちに現わされた神の働きの結果である信仰の訴えです。私たちが信じているものを与えられるのは神です(ピリピ1:29)。また、私たちが神を信じるのは神の御業であり(ヨハネ6:28-29)、私たちの生まれ変わりは私たちの意志によるものではありません(ヨハネ1:13)。

 


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